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「賭け将棋から“ホンマの将棋指し”になった阪田三吉」「関根金次郎ら有力棋士が派閥形勢」…将棋連盟設立“100年前の人間模様”が濃い

posted2024/01/30 06:01

 
「賭け将棋から“ホンマの将棋指し”になった阪田三吉」「関根金次郎ら有力棋士が派閥形勢」…将棋連盟設立“100年前の人間模様”が濃い<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

昭和初期に撮られた関根金次郎(中央)らの1枚。日本将棋連盟が発足した100年前とはどんな時代だったのだろうか

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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BUNGEISHUNJU

 公益社団法人・日本将棋連盟は2024年9月8日に創立100周年を迎える。その記念事業として、東京・千駄ヶ谷と大阪・高槻市に新将棋会館が建設される。節目の記念イベントも各地で行われる。そこで、明治時代から大正時代の将棋界の動き、100年前の1924年について田丸昇九段が振り返る。

 当時は「終生名人」制度で、名人の棋士は死ぬまで在位した。また、有力棋士たちが割拠していて、全体をたばねる組織はなかった。そうした状況で統合団体が結成された経緯、有力棋士たちの棋歴と横顔、将棋連盟の創立後に起きた問題などについて掘り下げる。【敬称略・棋士の肩書は当時】

小野十二世名人の就位に反対…“指し盛り”の関根金次郎 

 明治31年(1898)5月、小野五平七段は十二世名人に68歳(数え)で就位した。その5年前に死去した伊藤宗印十一世名人と違って、小野は将棋家の出自ではなかった。しかし、宗印が後継者と見込んだ2人の棋士が病没した、将棋界を支援する政財界の有力者から推薦された、などの事情によって在野派の名人が初めて生まれた。

 宗印の弟子の関根金次郎七段は、小野の名人就位に反対した。師匠と何かにつけて対立していた小野に不満を持っていて、31歳と指し盛りで将棋の実力は小野をしのいでいた。そして、「名人になるなら、自分との争い将棋を受けろ」と挑戦状をたたきつけた。ただ現代と違って、勝負で名人を決める時代ではなかった。関根は後援者の伯爵に「小野は高齢です。遠からず若いあなたにお鉢が回ってきます」と説得され、次期名人の内約を得たことで挑戦状を取り下げた。

 小野は長寿だったが、大正10年(1921)の正月に健康を害していた。関根が病床を見舞うと、小野は頑なに心を閉ざして後事を託そうとしなかった。狷介な性格のうえに、23年前の「争い将棋」の件をいまだに根に持っていたようだ。それから数日後、小野は90歳で亡くなった。

 小野五平は徳島県の出身。江戸時代に棋力抜群で「幕末の棋聖」と称された天野宗歩の門下。社交家の一面があり、福沢諭吉、渋沢栄一らの知名人と交流した。また、西洋将棋(チェス)を日本に広めて指導もした。

実力名人戦の礎を築いた関根

 大正10年5月、関根八段は十三世名人に53歳で就位した。指し盛りをすでに過ぎていたが、人格、識見、将棋界への貢献から名人に推された。それに至る経過、当時の有力棋士たちの棋歴や横顔をまず紹介する。

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