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男子シングル 「新時代の幕開け」 

text by

田村明子

田村明子Akiko Tamura

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photograph byTakuya Sugiyama

posted2009/03/26 15:04

男子シングル 「新時代の幕開け」<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama
充実期の日本は、エース不在だがメダル2つの可能性さえもある。

 昨年の秋、フィギュアスケート界にショッキングなニュースが続いた。

 先駆けは9月10日に突然報道された、現世界チャンピオン、ジェフリー・バトルのアマチュア引退宣言だった。「競技に意欲が持てなくなった」というバトルは、現役選手としては26歳と年長ではあった。だが自国カナダで開催される五輪を翌シーズンに控えた彼が引退するとは、誰も予測していなかった。

 追い討ちをかけるように10月16日には、バンクーバー五輪で本命視されていたスイスのステファン・ランビエルが引退会見。トリノ五輪で銀メダル、世界タイトルも二度手にした彼は日本でもコマーシャルに登場するなどして人気が高かった選手だが、内転筋を傷めたことを理由に競技から身をひいた。

 その衝撃も癒えないうちに今度は、日本のエース高橋大輔が10月31日の練習中、右膝負傷のニュース。来季のために大事をとり、今シーズンの活動を諦めて11月末に手術を受けた。経過は良好で、現在も朝の9時から夕方6時までリハビリ活動を行っているという。3月中に、氷上でのトレーニングも再開する予定と発表されている。

 こうして男子はトップ層が突然薄くなり、今回の世界選手権は、五輪前年のもっとも重要な大会であるにもかかわらず全体像がつかみにくい状態だ。

 ISU(国際スケート連盟)テクニカルスペシャリストとして多くの国際大会を担当し、トロントを拠点にコーチ、振付師としても活躍する天野真氏はこう語る。

「今の男子のトップ争いは、横並び状態。誰が勝ってもおかしくありません。でも全員がノーミスの演技をしたとすれば、上に来るのは今の採点方式をもっともよく理解しているパトリック・チャンと小塚崇彦の二人だと思う。いずれも新しい世代に属する若手です」

 本命なしと言われる中で急浮上してきたのは、2月にバンクーバー四大陸選手権で優勝したカナダの18歳、パトリック・チャンである。

「バンクーバー五輪では金メダルを目指します。最有力候補を名乗る資格が、自分にはあると思う」

 まだ怖いもの知らずの若者らしくストレートなコメントだが、彼の言葉にはきちんと裏づけがある。四大陸選手権のショートプログラム(SP)で88・90という、トリノ五輪王者エフゲニー・プルシェンコに次ぐ史上2番目に高い得点を獲得した。しかも、4回転に挑まずに出したのである。

 現在もっとも安定した4回転ジャンパーである2007年世界チャンピオン、フランスのブライアン・ジュベールは、1月の欧州選手権でこうコメントした。

「ロサンゼルス世界選手権でもっとも怖いのは、パトリック・チャン。彼には4回転が必要ないのかもしれない」

 彼の懸念どおり、チャンは四大陸で一度も4回転に挑むことなく、総合249.19という高得点を叩き出した。欧州選手権でSP、フリーとも4回転を成功させたジュベールの総合点232.01を17ポイント以上も上回る数値である。ジャンプの難易度でいうとジュベールが上なのに、こういう結果になったのはなぜなのか。

 その理由は、チャンの18歳とは思えない基礎スケーティングの巧さである。スピンコンビネーションは手堅くレベル4を獲得し、ステップシークエンスにいたってはレベル4を出したのは今季まだ世界で彼のみ。ジャンプは質が高く、成功すれば必ず加点がつくし、芸術性などを評価するコンポーネントスコアでもずば抜けて高い点を得る。こうした部分で高いポイントを着実に稼いでいけば、4回転で力を出し切って細部が雑になりがちな選手を追い抜くことが今の採点方式なら十分に可能なのだ。チャンは「難易度よりも質の高さ」を求められる、今の新採点方式をもっともうまく活用している選手かもしれない。

「今の採点方式では、4回転は必ずしも必要ではないと思う。スケーティングが得手ではない選手なら、それを埋め合わせるために4回転が必要かもしれないけれど」

 そう豪語するチャンは、確かにそれだけの結果を出して見せた。

 チャンと並んで、今の採点方式の申し子と言われているのが小塚崇彦である。やはり質の高いスケーティング技術を生かしたプログラムの中身が濃く、一つ一つの技の質が高い。GP初戦のスケートアメリカで、エヴァン・ライサチェックと、ジョニー・ウイアーの二人を退けて優勝。進出したGPファイナルでも2位になったときに、こうコメントした。

「シーズンが始まる前はGPシリーズでメダルに届くか届かないかという位置にいると思っていた。ファイナルに到達できるとは予想していなかったし、ましてメダルが取れるとは思ってもいませんでした」

 確かに小塚が、世界選手権メダルを取った実績のあるベテランたちをあっさり破ったのは、旧採点方式では考えられないことだった。

 6点満点方式だった当時は、難易度の高いジャンプを跳ぶことと、一定期間安定した演技を見せてジャッジの知名度を得ることが勝利への鍵だった。だが今の採点方式になってからは、これさえやれば勝てるという決め技はなく、本人の最も得意な分野で総合的に高いポイントを稼ぐことができれば、知名度にかかわらず勝てる時代になったのである。

 その一方、選手への体力的負担は増えた。以前のようにジャンプの合間に体を休めることが不可能になったためだ。ステップもスピンも、少し気を緩めると目指したレベルが取れなくなる。ランビエルや高橋のように、スケーティングが巧く4回転もこなしてきた選手に負傷が多い理由は、能力が高い選手ほど密度を濃くしていく“域”が広いためだろう。

 新採点方式が正式に導入されて丸5年。いよいよ本格的にこのスポーツは、新しいゲームに変わろうとしている。

 だがベテランたちも、そうやすやすと若手にトップの座を譲り渡しはしないだろう。たとえば前述の天野氏はこう指摘する。

「ブライアン・ジュベールのような経験豊富な選手は、世界選手権に照準を合わせてしっかり調整してくるはずです」

 ジュベールは1月に私にこう語っている。

「世界選手権のフリーでは、調子が良ければ4回転を3回跳びます。最低でもトウループとサルコウの2種類の4回転を一度ずつは跳ぶようにしたい」

 フリーで4回転を3度成功させた選手はまだ世界で数名しかいないが、彼はその一人である。ロサンゼルスでそれを繰り返すことができれば、二度目の世界タイトルを手にするのに十分なポイントを稼ぐことも可能だろう。

 もう一人ヨーロッパの有力勢は、2008年欧州選手権チャンピオン、チェコのトマーシュ・ベルネルだ。スケーティングの巧さはチャンに勝るとも劣らず、4回転も跳ぶ。唯一にして大きな短所は、本番の好不調が激しいこと。だが潜在的能力が高いだけに目の離せない選手である。

 開催国の米国勢も、本大会に賭けてくることは間違いない。特にロサンゼルスをトレーニング拠点としているエヴァン・ライサチェックは、盛大な声援に後押しされて普段以上の力を出すことができる選手である。好調時には4回転も成功させるし、大きく崩れることが決して無い手堅いメダル候補の1人だ。

 また今季大ブレークしてGPファイナルタイトルと、全米タイトルを勝ち取ったジェレミー・アボットも、「今季は世界選手権のメダルを狙う」と堂々と宣言している。

 忘れてはならないのは、織田信成だ。四大陸選手権では「緊張で体が動かなかった」と惜しくも4位に終わり、その足でトロント在住の振付師、ローリー・ニコルの元に飛んだ。プログラムの手直しをして、足りなかったつなぎの部分などをしっかりと充実させた。今季NHK杯、全日本選手権を制した織田はまだ試合で4回転に成功したことはないが、四大陸選手権の公式練習では4回転・3回転・3回転の連続ジャンプを成功させている。柔らかい足首を駆使したスケーティングの質も申し分ない。優勝候補の1人である。

 ロサンゼルス世界選手権は、来季のバンクーバー五輪の代表枠を決定する大会でもある。3枠手にするためには、出場した上位2選手の合計順位が13位以内でなくてはならない。織田と小塚なら、その期待に楽々と応えてくれるだろう。エースの高橋が欠場してもメダル2個も夢ではない現在の日本男子の高い水準は、日本フィギュア史上初のことだ。

 五輪枠取りはこの先輩二人に任せて、今回がシニア世界選手権初出場となる無良崇人には、プレッシャーを感じることなく新人らしいのびのびとした演技を期待したい。

小塚崇彦

1989年2月27日、愛知県生まれ。両親と祖父がフィギュアの選手で、5歳から始める。'06年にジュニア世界選手権で初優勝。'08年スケートアメリカ優勝、GPファイナル2位。170cm

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